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第10話 知らない香水

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-06-10 11:00:11

土曜日だった。

本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。

隣を見る。

ベッドは空だった。

私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。

悠斗はソファでスマホを見ていた。

「あ、おはよ」

「おはよう」

カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

静かな休日。

昔はこういう朝が好きだった。

コンビニへ一緒に行ったり。

だらだら映画を観たり。

昼過ぎまで二人でソファにいたり。

でも最近は、同じ空間にいても少し距離がある。

「コーヒー淹れる?」

私が聞くと、悠斗はスマホから目を離さないまま頷いた。

「ん、お願い」

私はキッチンへ向かう。

豆を挽く音が部屋に広がる。

昔、悠斗が「この匂い好き」と言ってくれたことを思い出した。

その一言が嬉しくて、私はコーヒーミルまで買った。

……そういうのばっかりだ。

私は二人分のマグカップをテーブルへ置く。

「はい」

「ありがと」

悠斗は自然に受け取る。

スマホを見ながら。

私は向かい側へ座った。

「今日どうする?」

「んー」

悠斗は少し考えてから言う。

「夕方から会社のやつと会う」

「土曜なのに?」

「ちょっとだけ」

私は「そっか」と笑う。

最近、『会社のやつ』が増えた。

飲み会。

後輩。

打ち合わせ。

別におかしくない。

社会人なんだから普通だ。

そう思うのに、胸の奥だけがざわつく。

「真琴は?」

「洗濯して、買い物行こうかな」

「えら」

悠斗は軽く笑った。

その時、スマホが震える。

悠斗は画面を見る。

そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。

私はコーヒーを飲むふりをしながら、その表情を見てしまう。

胸の奥が、また冷える。

「……仕事?」

なるべく自然に聞く。

「ん?」

「連絡」

「あー」

悠斗は何でもないみたいに答えた。

「後輩」

私は頷く。

それだけ。

それだけなのに、指先が冷たくなる。

その後も会話は続かなかった。

悠斗はスマホ。

私はコーヒー。

静かな時間。

昔は、黙ってても落ち着いたのに。

今は沈黙のたび、何かを置いていかれている気がする。

午後になって、私は一人でスーパーへ向かった。

休日のスーパーは家族連れが多い。

小さな子どもが走り回っていて、母親が慌てて追いかけている。

私はカゴを持ちながら、ぼんやりその光景を見ていた。

昔、悠斗と将来の話をしたことがある。

『子どもとかどうする?』

私が聞くと、悠斗は笑いながら、

『真琴、絶対いい母親になるじゃん』

と言った。

嬉しかった。

その未来を、本気で想像していた。

でも最近は、そういう話もしなくなった。

私は野菜をカゴへ入れながら、小さく息を吐く。

その時、不意にスマホが震えた。

悠斗からだった。

『今日ちょい遅くなるかも』

私は画面を見つめる。

『了解』

短く返す。

それだけ。

もう、なんの予定?とは聞けなかった。

夜。

私は一人で夕飯を食べた。

テレビはついているのに、内容は頭に入ってこない。

時計は十時を過ぎていた。

悠斗はまだ帰ってこない。

私はソファでうとうとしかけて、そのまま目を閉じる。

どれくらい経っただろう。

玄関の音で目が覚めた。

「……ん」

私は慌てて身体を起こす。

「おかえり」

「ただいま」

悠斗は少し疲れた顔をしていた。

「寝てた?」

「ちょっとだけ」

「ごめん、起こした」

「ううん」

私は立ち上がる。

その瞬間。

ふわり、と知らない匂いがした。

甘い香り。

女物の香水みたいな。

私は一瞬だけ動きを止める。

悠斗は気づかないまま、ネクタイを緩めていた。

「今日さ、店めっちゃ混んでて」

普通に話し始める。

私はその声を聞きながら、胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じていた。

気のせいかもしれない。

たまたま近くにいた人の香水が移っただけかもしれない。

そう思わなきゃいけないのに。

でも。

私は知っている。

悠斗は甘い香水の匂いが苦手だった。

昔、私が試供品をつけた時も、

『ちょっときついかも』

って笑っていた。

なのに今、その匂いをまとって帰ってきている。

「真琴?」

悠斗が不思議そうに私を見る。

「どうした?」

私は口を開く。

聞けばいい。

その匂い、どうしたのって。

でも。

怖かった。

聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。

だから私は、また笑ってしまう。

「……ううん。なんでもない」

その瞬間。

胸の奥で、何かが静かに軋んだ気がした。

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  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第7話 私が知らない時間

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    玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。

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