LOGIN土曜日だった。
本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。 静かな休日。 昔はこういう朝が好きだった。 コンビニへ一緒に行ったり。 だらだら映画を観たり。 昼過ぎまで二人でソファにいたり。 でも最近は、同じ空間にいても少し距離がある。 「コーヒー淹れる?」 私が聞くと、悠斗はスマホから目を離さないまま頷いた。 「ん、お願い」 私はキッチンへ向かう。 豆を挽く音が部屋に広がる。 昔、悠斗が「この匂い好き」と言ってくれたことを思い出した。 その一言が嬉しくて、私はコーヒーミルまで買った。 ……そういうのばっかりだ。 私は二人分のマグカップをテーブルへ置く。 「はい」 「ありがと」 悠斗は自然に受け取る。 スマホを見ながら。 私は向かい側へ座った。 「今日どうする?」 「んー」 悠斗は少し考えてから言う。 「夕方から会社のやつと会う」 「土曜なのに?」 「ちょっとだけ」 私は「そっか」と笑う。 最近、『会社のやつ』が増えた。 飲み会。 後輩。 打ち合わせ。 別におかしくない。 社会人なんだから普通だ。 そう思うのに、胸の奥だけがざわつく。 「真琴は?」 「洗濯して、買い物行こうかな」 「えら」 悠斗は軽く笑った。 その時、スマホが震える。 悠斗は画面を見る。 そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。 私はコーヒーを飲むふりをしながら、その表情を見てしまう。 胸の奥が、また冷える。 「……仕事?」 なるべく自然に聞く。 「ん?」 「連絡」 「あー」 悠斗は何でもないみたいに答えた。 「後輩」 私は頷く。 それだけ。 それだけなのに、指先が冷たくなる。 その後も会話は続かなかった。 悠斗はスマホ。 私はコーヒー。 静かな時間。 昔は、黙ってても落ち着いたのに。 今は沈黙のたび、何かを置いていかれている気がする。 午後になって、私は一人でスーパーへ向かった。 休日のスーパーは家族連れが多い。 小さな子どもが走り回っていて、母親が慌てて追いかけている。 私はカゴを持ちながら、ぼんやりその光景を見ていた。 昔、悠斗と将来の話をしたことがある。 『子どもとかどうする?』 私が聞くと、悠斗は笑いながら、 『真琴、絶対いい母親になるじゃん』 と言った。 嬉しかった。 その未来を、本気で想像していた。 でも最近は、そういう話もしなくなった。 私は野菜をカゴへ入れながら、小さく息を吐く。 その時、不意にスマホが震えた。 悠斗からだった。 『今日ちょい遅くなるかも』 私は画面を見つめる。 『了解』 短く返す。 それだけ。 もう、なんの予定?とは聞けなかった。 夜。 私は一人で夕飯を食べた。 テレビはついているのに、内容は頭に入ってこない。 時計は十時を過ぎていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私はソファでうとうとしかけて、そのまま目を閉じる。 どれくらい経っただろう。 玄関の音で目が覚めた。 「……ん」 私は慌てて身体を起こす。 「おかえり」 「ただいま」 悠斗は少し疲れた顔をしていた。 「寝てた?」 「ちょっとだけ」 「ごめん、起こした」 「ううん」 私は立ち上がる。 その瞬間。 ふわり、と知らない匂いがした。 甘い香り。 女物の香水みたいな。 私は一瞬だけ動きを止める。 悠斗は気づかないまま、ネクタイを緩めていた。 「今日さ、店めっちゃ混んでて」 普通に話し始める。 私はその声を聞きながら、胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じていた。 気のせいかもしれない。 たまたま近くにいた人の香水が移っただけかもしれない。 そう思わなきゃいけないのに。 でも。 私は知っている。 悠斗は甘い香水の匂いが苦手だった。 昔、私が試供品をつけた時も、 『ちょっときついかも』 って笑っていた。 なのに今、その匂いをまとって帰ってきている。 「真琴?」 悠斗が不思議そうに私を見る。 「どうした?」 私は口を開く。 聞けばいい。 その匂い、どうしたのって。 でも。 怖かった。 聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。 だから私は、また笑ってしまう。 「……ううん。なんでもない」 その瞬間。 胸の奥で、何かが静かに軋んだ気がした。カフェを出た時には、午後の日差しが少し傾き始めていた。 店の前に置かれた鉢植えが風に揺れ、通りには買い物帰りらしい人たちの姿が増えている。「おいしかったですね。タルトもケーキも」 私が言うと、朝倉さんは満足そうに頷いた。「はい。今度はスコーンも食べてみたいです。隣の席に運ばれてきたのを見て、少し気になっていたので」「見てたんですね」「実は。藤崎さんがケーキを選んでいる時から、僕はそっちも気になっていました」「言ってくださればよかったのに」「さすがに三種類は食べすぎかなと思いまして」 真面目な顔で答える朝倉さんに、私は笑ってしまった。 初めて会った頃は、こんな冗談を言う人だとは思わなかった。落ち着いていて、少し距離のある印象だったのに、今は穏やかな表情の中にも、いろいろな感情が見えるようになってきた。 私たちは駅へ向かって歩き出した。 まだ帰るには少し早い時間だったけれど、朝倉さんにも予定があるかもしれない。 そう思っていると、彼が通りの先へ目を向けた。「藤崎さん、このあと少し歩きませんか?」「お散歩ですか?」「はい。せっかく初めて来た町なので、もう少し見てみたいなと思って。もちろん、お時間があればですが」 私はすぐに頷いた。「私も、もう少し歩いてみたいです。さっき来る途中に、気になる雑貨屋さんがあったので」「それなら、そこへ行ってみましょうか」 帰り道が、少しだけ遠回りになった。◇◇◇◇ 駅へ向かう大通りから一本入ると、古い建物を利用した小さな店が並んでいた。 手作りのアクセサリーを置いた店や、焼き菓子の専門店。店先に植木鉢を並べた花屋もある。 私たちはショーウィンドウを眺めながら、ゆっくり歩いた。「あ、ここです」 私が足を止めたのは、小さな生活雑貨の店だった。 窓際にはガラスの花瓶や木製のトレーが並び、奥の棚には布製品が見える。
カフェの扉を開けると、焼き菓子の甘い香りがふわりと漂ってきた。 店内には落ち着いた音楽が流れ、木製のテーブルがゆったりと配置されている。壁際の棚には古い本や小さな雑貨が並び、窓から差し込む午後の日差しが床に柔らかな模様を作っていた。「いらっしゃいませ。お二人ですか?」「はい」 店員さんに答えると、窓際の二人席へ案内された。 向かい合って座り、メニューを開く。写真で見た季節のケーキのほかに、スコーンやタルトもあって、思っていた以上に種類が豊富だった。「迷いますね」 私が呟くと、朝倉さんが笑った。「藤崎さん、来る前から何を食べるか決めていたんじゃないんですか?」「一応、季節のケーキにしようと思っていたんです。でも実物を見ると、タルトもおいしそうで」「それなら、両方頼んで分けますか? 僕も甘いものは好きなので」「朝倉さん、甘いものがお好きなんですね」「はい。結構好きですよ。ただ、一人で店に入るとコーヒーだけで済ませることが多いので、今日はいい機会です」 思いがけない答えに、私は少し笑った。「じゃあ、今日は遠慮なく頼めますね」「もちろんです。僕も楽しみにしていましたから」 結局、私は季節のフルーツケーキ、朝倉さんは洋梨のタルトを注文した。飲み物は私が紅茶、朝倉さんはブレンドコーヒー。 店員さんが離れると、私は店内をゆっくり見回した。「写真で見た通りのお店で、安心しました」「僕は写真より好きかもしれません。木の床が少しきしむところとか、棚の本がきれいに揃いすぎていないところとか、実際に来ないと分からない雰囲気がありますね」「確かに。本も自由に読めるみたいです」「何か気になる本がありましたか?」「料理の本が何冊か。帰る前に見てみたいです」「いいですね。僕も少し見てみようかな」 そう話していると、朝倉さんの視線が棚の一角で止まった。 そこには、少し古いボードゲームの箱が並んでいた
土曜日の午後一時半。 私は駅のホームに立ち、スマホで時間を確認した。 朝倉さんとの待ち合わせは午後二時。ここから二駅だから、少し早めに着くことになりそうだった。 今日は朝から落ち着かなかった。 いつも通り朝食を食べ、洗濯物を干し、部屋の掃除も済ませた。それなのに、出かける支度を始める頃には、何度も時計を確認してしまった。 服は、淡いブルーのブラウスに紺色のスカートを選んだ。 先日、一緒に喫茶店へ行った時とは違う組み合わせだ。鏡の前で何度か確認し、最後に小さなイヤリングをつけた。 別に、特別なおしゃれをしたわけではない。 でも、朝倉さんに会うのだから、少しはきれいにしていきたい。 そう思って服を選ぶ時間が、楽しかった。 電車がホームに滑り込んでくる。 私はバッグを持ち直し、車内へ乗り込んだ。◇◇◇◇ 待ち合わせの駅に着いたのは、午後一時四十五分だった。 改札を出ると、休日らしく何組かの人が待ち合わせをしていた。家族連れや学生らしい二人組、スマホを見ながら誰かを待つ人。 私は少し離れた場所に立ち、朝倉さんへメッセージを送ろうか迷った。 まだ十五分ある。 急かすようになるのも申し訳ないし、約束の時間まで待っていればいい。 そう思ってスマホをバッグに戻した時だった。「藤崎さん」 聞き慣れた声に振り向く。 朝倉さんが、改札の向こうから歩いてきた。 白いシャツに薄手のネイビーのジャケット。普段より少しきちんとした服装で、片手には小さなバッグを持っている。 いつものカメラバッグではなかった。「こんにちは。早かったんですね」「こんにちは。少し早めに出たつもりだったんですが、藤崎さんの方が先でしたね」 朝倉さんは笑いながら、腕時計を見た。「まだ十五分ありますし、慌てなくてもよかったのに」「私も少し早く着いてしまったんです。電車の時間がち
洗濯物を畳み終える頃には、部屋の時計は午後十時に近づいていた。 私はクローゼットへ衣類をしまい、明日の仕事の準備を済ませた。 いつもと変わらない月曜日の夜だった。 けれど、今度の土曜日には約束がある。 朝倉さんと、午後二時に待ち合わせる。 そう考えると、自然に頬が緩んだ。 何を着ていこう。 カフェでは何を頼もう。 写真で見た季節のケーキもおいしそうだったけれど、焼き菓子も気になる。 そんなことを考えているうちに、ふと手が止まった。 こんなふうに誰かと会う日を楽しみにするのは、いつ以来だろう。 悠斗と付き合い始めた頃は、私も休日の予定を楽しみにしていた。 どこへ行こうかと話し、服を選び、待ち合わせの時間を何度も確認した。 あの頃は、会えるだけで嬉しかった。 特別な場所へ行かなくてもよかった。仕事帰りに待ち合わせて、駅前の店で夕飯を食べるだけでも楽しかったし、帰り道に少し遠回りをするだけで、もう少し一緒にいられることが嬉しかった。 それがいつの間にか、休日は一緒に生活を回す日になっていた。 買い物へ行き、足りないものを補充し、掃除をして、食事を作る。時々出かけることもあったけれど、私の頭の中には帰宅後の夕飯や翌日の準備がいつも残っていた。 あの時間が全部嫌だったわけではない。 楽しかった日も、嬉しかったことも確かにある。 ただ、いつからだろう。 誰かと過ごす予定を楽しみにするより、その予定をうまく終わらせることを考えるようになったのは。 私は畳み終えたタオルが収まった棚を見つめた。 もう、あの頃のことを一つずつ責めたいわけではない。 悠斗との時間を、全部間違いだったことにしたいわけでもなかった。 私が好きだった気持ちも、二人で笑った時間も本当だったのだと思う。 でも、好きだったからこそ、私は少しずつ無理をするようになっていた。 相手が困らないように。
返事が届いたのは、メッセージを送ってから二十分ほど経った頃だった。 私はちょうど洗濯物を畳んでいて、テーブルの上でスマホが震える音に顔を上げた。 画面には、朝倉さんの名前が表示されている。 自分から送ったのだから返事が来る可能性は分かっていたけれど、実際に名前を目にすると、思っていた以上に緊張した。 私は手に持っていたタオルを畳み終え、洗濯物の山の上に置いてからスマホを取った。 もし、都合が悪かったら。 誘われたこと自体が負担だったら。 そんな考えが頭をよぎる。 断られる可能性があることは、送る前から分かっていた。だからといって、怖くないわけではない。 私は画面を開いた。『こんばんは。こちらこそ、先日はありがとうございました。お誘いいただけて嬉しいです。今度の土曜日なら午後から時間があります。ぜひご一緒させてください』 読み終えた瞬間、肩の力が抜けた。 そして、自然に笑みがこぼれた。 朝倉さんが、私の誘いを受けてくれた。 それだけではなく、誘われて嬉しいと言ってくれている。 私はその一文を、もう一度読み返した。『お誘いいただけて嬉しいです』 丁寧で、朝倉さんらしい言葉だった。 けれど今は、その丁寧さの奥に、彼自身の気持ちがあるように思えた。 先日、喫茶店で話した時もそうだった。 朝倉さんは、私と普通に話してみたいと思っていたと言ってくれた。展示や写真の話だけではなく、何でもない時間を一緒に過ごしたかったのだと。 そして今日、私が誘ったことも喜んでくれている。 私だけが、また会いたいと思っていたわけではない。 そう分かったことが、胸の奥を温かくした。◇◇◇◇ 私はカフェの案内ページをもう一度開き、場所と営業時間を確認した。 土曜日の午後なら、ちょうどいい。 写真で見た雰囲気は素敵だったけれど、実際に行ってみたら想像と違うかもしれない。週
月曜日の昼休み、私はスマホの画面を眺めながら、少しだけ悩んでいた。 表示しているのは、会社から電車で二駅ほど離れた場所にある小さなカフェの紹介ページだった。 古い建物を改装した店らしく、木製の家具と大きな窓が印象的だった。写真には焼き菓子や季節のケーキが並んでいて、休日には軽いランチも出しているらしい。 気になったのは、窓際にある二人掛けの席だった。 朝倉さんと行った喫茶店とは雰囲気が違うけれど、ここなら落ち着いて話せそうだと思った。 先週末、朝倉さんと別れる時に交わした約束。 今度は私から誘ってもいいですか。 朝倉さんは、ぜひ、と答えてくれた。 あの時は自然に言えたのに、いざ本当に誘おうとすると、少し緊張する。 まだ数日しか経っていない。 早すぎるだろうか。 でも、せっかくなら今度の週末に行ってみたい。 私は画面を閉じたり開いたりしながら、何度目か分からないため息をついた。「藤崎さん、何か難しい案件ですか?」 顔を上げると、森下さんが立っていた。「あ、ううん。仕事じゃないの」「そうなんですね。すごく真剣なお顔だったので」 森下さんは隣の椅子に座り、持ってきたお茶をテーブルに置いた。 私は少し迷ってから、スマホの画面を見せた。「このお店、どう思う?」「カフェですか? 素敵ですね。誰かと行くんですか?」「……うん。まだ誘ってないんだけど」 そこまで答えると、森下さんが私の顔を見た。 そして、少しだけ目を見開く。「もしかして、朝倉さんですか?」「どうして分かったの?」「藤崎さん、今ちょっと照れてます」「そんなに分かりやすい?」「はい。でも、いいと思います」 森下さんは笑いながら、スマホの写真へ目を戻した。「ここ、雰囲気もよさそうですし、駅から近いみたいですね。何よ
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。